部活を終え、家路につく。いつもより遅くなってしまった。小走りに交差点を右に曲がる。目の前いっぱいに車が見えた。トラック。ぶつかる、と思う間もなく衝撃がきて。そして――。
[那由他の色]
雨だ。とにかく雨だった。バケツをひっくり返したとか、それどころじゃないくらいの激しい雨が降っていた。痛いくらいの雨粒。そんな中、僕は傘もなく、立っていた。髪はびっしょびしょ。制服もぐずぐず。靴は歩くたびに、がぽがぽとうるさい。空はまっくろで前も見えない。足元はずるずる滑る。最悪の条件下だった。
そんななか不意に目の前に、すっと肌色が見えて、雨が収まった。何事かと上を見ると、鮮やかなエメラルドグリーンが広がっていた。そこから銀色の細い線をたどると、肌色。――手だ。この雨の下なんかにいたら折れそうな華奢な手。手は肩に向かって見えなくなっていて、まるで幽霊……。と、少しびびり気味に、ぽかんと口を開けていたら、エメラルドグリーンが落っこってきた。僕の頭と肩にあたって止まる。手は引っ込んでいた。
(これ、傘だ……。なんなんだ)
傘をきちんと支えて持ったとき、目の前でぽん、と音がして世界がひとつできた。アイスグリーンの、その下。そこにはびっくりするぐらい綺麗な女の子が立っていた。体じゅうどこをみても、驚くほど細っこい。マスカットグリーンのノースリーブワンピースを着た、ちっちゃい顔と、優しそうな瞳と、それを覆う栗色でショートカットの柔らかそうな髪を持つ女の子。背丈は同じくらいで、同い年くらいかなあ、とふと思う。
ふわっと、しかしはっきり目的地があるように、彼女は背を向けて歩いて行く。僕はそれを追いかけた。
(前、見えてるのかな。この雨の中で?)
やがて彼女は傘を閉じた。四阿だ。屋根の端からびちゃびちゃ雨が落ちている。僕も傘を閉じて、彼女が座ったベンチのその隣に腰かけた。
「ねえ、僕、アキツグっていうんだけど。君の名前は?」
ざあざあ五月蝿い雨の音に負けないように少し大きい声で言った。ぼーっと雨を眺めていた彼女がすぅっとこちらを向く。
「ナユタ」
不思議な響き。けして大きくはない、だけど雨に負けない透き通った綺麗な声。
僕がもっていた傘の柄を指さして言う。
「キイ、ナユタ」
そこにはマジックで『紀伊 なゆた』と記されていた。
くるっと向こうをむいて――マジックを取ったみたいだ。そうして、僕がもっている方の傘に書かれた名前を二重線で消し、すこし首をかしげたあと、『あきつぐ』とひらがなで書き込んだのだった。
「ここは、いつも雨だから」
それきり、ナユタは黙り込んでしまった。
椅子の上に、体育座りのように膝を持ち上げ、抱え込んで顎を埋めて、正面――雨の壁を見つめている。
そのまま、だいぶ時間が過ぎた。いい加減雨のびしゃびしゃした音ばかりを聞いているのにも飽いて、人形みたいにぴくりともしないナユタに声をかけることにした。
「雨、止まないね」
「世界が、悲しんでいるの。いっぱいの『悲しい』が集まっているから、だから神様が雨を降らすの」
「え?神様って……」
正直、呆れたというのが正しい。僕は中学生で、きっとナユタも同じくらいのはず。だのにあまりにも子供っぽいことを言うので。
「あ、あのさ、ここって他に人いないの?探しに行こうよ」
神様より人間の方がよほど現実的で、その思いつきは実際正しいように思えた。
だけど、ナユタは首を横に振った。
「ここにいなくてはダメ。ここは安全なのだから」
きっぱりと言って、立ち上がりかけた僕の服の裾を固くつかんでいる。
その手を振りほどくのはなんだか罪悪感にとらわれそうで、結局元のように黙って二人で雨を眺めた。
雨は収まらない。どころかひどくなる一方だった。なんだか呼吸まで重苦しい気がする。実際、体はすごく重たくて、本当にここは安全なのか問いただしたくなるほどだ。考えれば、夏とはいえ、びしょ濡れになったのに着替えも、タオルで拭くことさえしていないのだから、寒気のひとつくらいしてもおかしくない。
だのに、額には汗。息は上がってきている。過換気症候群のよう。座っているのさえ苦しい。雨はますます激しく降り注ぐ。ざあざあ。ざあざあ。その音を聞きながら、横になって目を閉じる。あきつぐ。ナユタの声がする。ナユタが呼んでいる。ずっと遠いところから声が聞こえる。意識は眠る前のようにふわふわしてきている。あきつぐ。子供みたいな発音。それを最後にぷつと意識は途切れた。
ナユタは意識を失ったアキツグを見つめ続ける。あきつぐ。たまに声をかけながら。ざあざあ。雨は降りしきる。苦しそうだったアキツグの表情が少しづつ穏やかになってゆくのをナユタは見つめる。ずっと、ずっと。あきつぐ。声をかける。雨が弱まってきた頃、ナユタは少しだけ正面を見た。それからまた横を向く。そこには何もなかった。ナユタはもう一度正面、今まで雨のカーテンがかかっていた方を向く。
雲が切れて、薄日がさしていた。ナユタは少し微笑んで、抱えていた膝を下ろした。
優しい日差しの下で女の子がワンピースを風になびかせて微笑んでいる。そんな夢を見ていた。
ぽかっと目を開けたとき、見えた色は白だった。すごく静かだ。ええっと、と、ぼうっとした頭を働かせていると、声がした。僕じゃない。女の子の声だ。驚きと喜びのつまった小さな叫び。あきつぐ、という音。あきつぐ――秋継。僕の名前だ。ばさ、と黒が降ってくる。女の子の長い黒髪、結えられた濃赤のりぼん。古めかしい濃紺のセーラー。――ちがう。くろじゃない。あかじゃない。あおじゃないんだ。でもなんだろう。もやっとしていて――。手を頭にやろうとして、動かないことに気がつく。
「……あ、れ?」声は出た。
女の子がばたばた外へ出て、大人の白い人を連れてきた。いっぱい。
そうだ。夕子。この女の子は、双子であり妹である夕子だ。いつも通りの制服。いつも通りのお嬢さんらしい、長い黒髪。そこに結わえてあるりぼん。
大人の人がいなくなって僕は夕子に聞く。
「夕子、ええと、僕、その、どうしたわけ?」間抜けな質問だ。
「秋継は交通事故に遭ったの。もう一ヶ月も前に。覚えている?」
「いいや、……そうか。だから体が動かないんだ」
「骨は折れていないって。打撲はたくさんあったそうだけど。いつまでも起きないんだもの。どれだけ心配したと思っているの。それを、『あれ?』って」
「ええと、ごめん」
「ううん、よかった。起きてくれて」
ピンク色のイメージの大人の人がやって来た。お母さんだ。走ってきたみたい。ちょっとよれっとしている。上半身を起こしている僕を見て泣き出した。そうそう。お母さんは結構泣き虫なんだ。なんだか笑顔がもれる。
だけど……、ちがう。色がちがう。
夜になって面会時間ぎりぎりにグレーのスーツのお父さんが駆け込んできた。少しだけ会話をする。
小さい町の一番大きな病院は、やっぱり小さい。気がする。大都市の病院を見たことはないけれど。そんな一角、外科の領域の理学療法室で僕のリハビリが始まっている。すこしづつ、動くようになる体。忘れられない、あの夢のイメージ。
夕子とはだいぶ違うイメージの女の子だった気がする。でもどんな?と聞かれると分からない。外を見ると今日は風が強いようで木がざわざわ鳴っている。ふっと、やわらかくなびくグリーンが思い浮かぶ。
グリーン、とメモ帳に記す。その時、お母さんがやって来た。傘に目が行く。雨が降っているのと聞くと、少し前からひどく降り始めたという。窓の外を見ると。めまいがした。気分が悪いわけじゃない。レトリックだ。窓を開けると、ざあ、という激しい音。心のおくに響く。
ざあざあ。ざあざあ。ざあ……――。
ずいぶんと体は動くようになったし、脳波も安定。退院もすぐねと母さんが嬉しそうに言う。そうだねと言いながら、だいぶイメージの固まった女の子のことを想っていた。存在すらしないかもしれない女の子のことを。
中庭に出て、植えられた木の鮮やかなグリーンを見ると、それは強くなる。『悲しい』に満ちたあの世界に、今もまだ彼女はいるのだろうか。肩をもたれかけあった、あの女の子のことを想いながら、空を見上げた。
途中、何か視界に引っかかった。
(なんだろう)
きょろ、とゆっくり頭を戻していく。
(あっ……)
あそこは確か、循環器科。四階東から三つ目の窓際。
足は勝手に動いた。今までのどんな時よりも早く、駆けるように。
パジャマは疑問視されずに病院内を彷徨けるパスポート。外科から循環器科へ行っても誰も気に留めない。
循環器科四階、廊下。
背丈はおんなじくらい。
多分年も。
ショートカットの髪は栗色。
ちっちゃい顔。
マスカットグリーンのパジャマと。
それに包まれた驚くほど細い体。
そんな、女の子が立っていた。
「ナユタ……?」
「アキツグ」僕の名を呼ぶ、不思議な響き。透き通った綺麗な声。魅了されずにはおれない笑顔。
「また、会えたね」
……END