終電もとうに過ぎた真っ暗な夏の夜。今年は早々に梅雨も明け、昼間からじりじり照っていた太陽の熱は月の時間になっても全盛期で、まだまだ暑い。そんな中、俺は線路沿いの暗い道で中学生と高校生のそのどちらでもありそうな少女がふらふらと歩いているのを見つけた。
(もう、夏休みか?にしては遅い時間まで危ねえな……)
少女は真白くて裾がたっぷりとしていて丈の長い、生地は薄手だが、この時期としては目に暑い長袖のワンピースを着て、背中にかかる淡い色の髪を風に泳がせていた。水色ベースのポシェットを下げてもいたし、今日は快晴だったからおそらく日傘――薄いブルーでレースが少し付いている――も持っていた。
俺は悩んだ末に声をかけることに決めた。自分が怪しまれるかもしれないが、本当に危険なところにこの少女が転がり落ちることを懸念したので。
「なあ、ちょっと。そこの白い女の子」
少女はくるりと振り返った。胸元に傘を引き上げ両手で握り締めて。
「――わたしになにか、用ですか?」
細くて高い、頼りなさそうな、緊張した声で言った。
「いやいや、俺は別に怪しいものじゃない。君に、一応もう日付も変わっている深夜だよということを教えてあげようかと思っただけだ。ここは繁華街だとも」
「――電車、終わっちゃった」
「そう。夏休みだからっていつまでもふらふらしないで家に帰れ」
「――いや」
「あ?ひょっとして家出か?面倒くさいの拾ったな」
「――……」
「しょうがないから、朝まで俺ん家くる?そんで電車走る時間になったら帰りなよ」
「……」
「あ?家このへんなら送ってくけど」
「……」
「話通じてないなあ。どうすればいいってんだよ。うーん、これは本格的に面倒だな……はあ」
少女の手を俺は引いて一方向へと歩き始める。
「とにかく!こんな遅い時間に女の子が一人で外でふらふらしてるなんて危ないから、家へ行く。朝が来たらいろいろ考えるということで、いいね」
「――――はい」
翌朝、女の子は部屋から消えていた。帰ったんだろうと楽観的に思って特に気にしなかった。大学生だって忙しいのだ。今テストあるしね。
……もなく、二番線に、通勤快速、新木場、行きが、まいります。黄色い線の……
ホームのベンチに腰掛けた少女が顔を上げる。きょろ、と周りを見回して、またうつむく。通勤通学時間のこととて誰も彼女に気を止めるものはいなかったが、彼女はかれこれ一時間はそこに居た。白い大きめのワンピース。つばの広い麦わら帽子。淡いブルーで統一された、ストール、ポシェット、日傘。背中に溢れる淡い色の髪。どれもが儚く危うい色合いを秘めていた。そのまた一時間後、人の流れが途切れる頃、彼女はいなくなっていた。
……京線、新木場方面行き列車は、人身事故による影響で、現在、運転を見合わせて……
ベンチに座ろうとしたおれは面倒臭そうに顔を上げ、さきほど登ってきた階段を降りてホームから違う路線のホームへと移動した。テスト間に合わなかったらホームにおっこった誰とかのせいだからと思いながら。人身事故は多い。そういえば一昨日かその前にもあった。お陰様で慣れている。問題なく別路線に乗り換えた。テストには間に合った。
限界まで図書館で勉強してから、俺が部屋へ戻るとこたつテーブルにちょこんと少女が座っていた。訝しむと少女は鍵が開けっ放しだったことを告げた。居座られてしまったと厄介に思ったが、追い出すのも面倒なので、俺は、あ、そう、と適当に返事をした。テレビをつける。今日の人身事故のニュースをやっていた。飛び込んだのは二十代男性だそうだ。全く迷惑な。意識不明、重傷、遺書のたぐいは見つからず……、だと。あ、そういえば女の子の分のご飯も作んなきゃならないのかと気づいた。何か食うかと問うために少女の方を見やればなにやら菓子を食べている。当然、それは俺が俺のために買ってきておいたものだ。はあ。蓄えてあるカップ麺をすする。そして寝る。明日もテストだ。
朝にはまた少女は居なくなっていた。彼女は朝早くから出かける必要があるのかもしれない。申し訳ないがきっちり鍵を占めさせてもらった。いい加減家へ帰れと念を込めて。願いが通じたんだかなんだか知らないが、この日、少女は現れなかった。そのまま俺は彼女のことを忘れた。俺の脳のキャパシティーには容量が決まっててね。
三日後、ついにテストが終了した。なんて喜ばしい言葉だろう、テスト・終了。足取りも軽く、俺は家路についた。まだ明るい。久しぶりに日があるうちに家に帰ったな、と思う。家の前に淡いブルーの日傘をさした少女が立っていた。誰だ?と少し考えて、ああ、と思い至る。二日だけ居座られた女の子だ。無表情だった彼女は、今はしかし嬉しそうに、こらえきれないという感じで笑みを浮かべていた。こちらを向く。かたん……、と音を立てて日傘が彼女の手を滑り落ちる。満面の笑みを浮かべ、小走りで俺に近寄ってくる。そして細くて高いが、頼りなさそうな印象は全く消え失せた声でこんなことを言い出した。
「ねえ、聞いて!私、やったの。ううん、やり返したのよ!
私の傘を蹴って、私を突き飛ばして、私を線路に落として、私を殺して、その全部を忘れてたあの男の人を、私とおんなじ目に合わせてやったの!
私が死んだ駅であいつがくるのを待ってたの。ずっとよ。あの駅にいるの、すっごく気分が悪かったわ。でも我慢した。今度は私の番だもの。いくらでも耐えられた。
とうとうあいつを見つけたわ。私はあいつを思いっきり突き飛ばしてやった。びっくりしていたわ。胸がすく思いだった。でもしぶとかったの、あいつ。なかなか死なないんだもの。病院でずっと死ぬのを待ってた。病院だって私にしたら気分が悪い場所なのよ。なのに三日もまたせて。でもようやく死んだわ。
これで私、満足してお墓に入れるわ。ふふ、誰かに教えたかったの。あなたの部屋にあった薄くてパリパリするお菓子、美味しかった。ありがと。じゃあね」
笑顔で手なんか振って去っていく彼女には影ができていなかった。夕方ながら強い日差しはまだ健在だぞ。まさか。冗談だろ?
……END