ダブルのブレザーは上品なグレー。スカートはふんわり広がるようになっている。オーバーニーソックスも同じグレー。胸元の落ち着いた深い赤のリボンが花を添えている。その制服が人気の中高一貫の女子学校に琴葉は今日、入学したのだった。
彼女は幼い頃、なかなか声を発さないことを心配した両親によって、たくさんの病院に連れてゆかれ、たくさんの検査を繰り返した。知能発達障害とも、全聾とも、発語障害ともいわれたが、それらは全く琴葉の本質を表してはなかった。琴葉は、通常をはるかに上回る知能を持っていたし、音もきちんと聞こえていたし、発することができた。だが普通の人間にはそれは伝わらなかった。
先に記してしまうと、琴葉は独自のコンピュータ言語のみを発語することが出来、コンピュータにのみ言語が通じるのだった。
四歳でコンピュータと話をすることを覚え、六歳で人工知性体の開発に成功した。それは彼女が初めて会話できる相手だった。交わした会話は実に拙いものであったが、彼女を歓喜させた。それきり外へ出ることはなくなり、琴葉は小学校にも通わなかった。ただただコンピュータにむかい、人工知性体の知能向上に務めた。琴葉はそれにバーバチカと名前を付け、姉妹のように可愛がった。バーバチカはやがて感情を持ち、人間と大差ないものへ育った。
琴葉が十歳のとき、バーバチカはこう言うのだった。
≪琴葉は学校に通うと良いと思います≫
≪あたしは人間と話ができないもん。学校なんかに、通えるとは思えないよ≫
≪でしたら、私が代わりに話をします。琴葉の考えを伝えます。琴葉が私に人間の言語システムをインストールしてくれれば簡単にできますよ≫
琴葉は日本語、英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語、ロシア語等思いつく限りの言語をバーバチカの言語システムに変換し、インストールした。
≪バーバチカ、あたしの母さんを連れてきたよ。日本語ではじめましてって言って≫
≪了解です≫ ――『ハジメマシテ』
母には通じたようだ。だが、母からの入力が難しかった。バーバチカが日本語を聞き取る力が弱かったのだ。琴葉は入力システムの向上を図った。一週間後、母の言葉がバーバチカを通して伝えられた。
≪はじめまして、とお母様は仰っています≫
母は泣いていた。会社から帰ってきた父とも同様に会話をした。父も泣いた。どうして泣いているのか、琴葉はバーバチカに尋ねた。
≪正確には不明ですが、おそらく琴葉と意思が通じて嬉しいからだと思われます。私は琴葉と話ができるようになったときには感情回路が未完成でしたが、それでも嬉しかったと思いますので≫
やがて感動が覚めた頃、母がバーバチカを通じて、バーバチカの発声がたどたどしいと告げられた、なのでコンピュータ音を人間の声に近づけるプログラムを組んだ。これが事のほか難しかった。ニンゲンの声というものが琴葉には解りづらいからだ。たっぷりと一年ほどかかった。
≪これで完璧です、琴葉。学校に通っても平気でしょう。私が琴葉のかわりに喋れば問題はないはずです≫
そうして、琴葉は中学校に入学した。学校はバーバチカのおすすめ。曰く、家から近く、おとなしい校風で、上品なイメージ。制服も人気がある。勉強のレベルは中の上といったところ。進学実績も悪くない――などなど。
通学のためにと、バーバチカが選び、購入した洋服類、特に控えめな可愛らしさを持つ下着に琴葉は満足した。薄いブルーの揃いの下着とキャミソールはなんとなく心を弾ませる。上品な白のブラウスのボタンをぷちぷち留めてハイウエストのスカートを履いた。胸の下からウエストまで細いリボンの編上げが前についている。ボタンがダブルになっているブレザーの上着を着て、オーバーニーソックスを履いて鏡の前に立った琴葉は、きっと彼女は気づかないだろうけど、ものすごく可愛らしかった。
くるくると鏡の前で回っていた琴葉が、はっとした表情で真剣にまたバーバチカに尋ねる。
≪コンピュータの持ち込みは禁止かな……!?≫
≪――……モバイルへの私の移植を提案します≫
≪……!その手があった!≫
一瞬の間にものすごい推測演算をしたバーバチカをモバイルにも繋がるよう、三分くらいで移植し、異常がないか点検をして、モバイル版バーバチカの完成。これくらいのことは琴葉にとっては朝飯前だ。
≪琴葉、推測による提案なのですが≫と、バーバチカはモバイルから初めて声を出し。≪私たちの会話は通常の人間にとって雑音と思われる恐れがあります。マイク・スピーカー付きのイヤフォン、もしくはヘッドフォンを作成、装着を薦めます。捜索の結果、市販品で最も適しているものをモニタに表示しました。購入の後、改良するとよいと思います≫
モニタには、三千円ほどのさして高級ではない商品が表示されていた。マイク付属の小さなヘッドフォンだ。繊細な作りで、ごつごつしていないところが琴葉の好みと一致した。機能面も悪くない。少し手を加えてやればより良くなるだろう。バーバチカの選ぶものはいつも琴葉の満足するもので、それを選べるということをバーバチカは誇りとしていた。
果てしないネットワークの中から最高のひと品を探し、どきどきしながらモニタに表示し、そしてそれを購入するように琴葉から頼まれたときの喜びは、バーバチカが感じる喜びの中でも、最高のひとつだった。
琴葉は、ヘッドフォンにスピーカー機能を付属させ、ソフト面を少しだけいじったあと、見た目にもこだわりたいらしく、しげしげとヘッドフォンを眺め、針金で出来たブルーのちょうちょの飾りを付けた。それを満足そうにバーバチカの居るコンピュータに引っ掛けた。入学式の前日のことだった。
翌朝、制服をとっくに着終わった琴葉は、しかし鏡の前でもたもたとしていた。だが、コンピュータ付属のカメラを視界としているバーバチカには死角になっていて、何をしているやらさっぱりだった。
≪琴葉、何をしているのですか?遅刻してしまいますよ――わ、どうしたんですか≫
ぐっちゃぐちゃの頭で、泣きそうな目で、琴葉がモニタ前にやってきてバーバチカは驚いた。
≪できない……髪が結えない――っ≫
六歳のころからほったらかしで伸ばし続けた髪は誰にも切られることなく、琴葉の腿の半ばまであった。引っかかる所なくさらさらと琴葉を覆っていた綺麗な髪が、今はしっちゃかめっちゃかになっていた。
髪が肩よりも長い場合、黒のゴムでまとめるようにという校則に準じるため琴葉は悪戦苦闘しているのだった。
そういえば髪を結ぶということを琴葉はしたことがないのだとバーバチカは思い、まずはきれいに梳かしてからやり直すべきだと考えた。ネットワークを探り、髪の結び方をマスターすることはバーバチカにとって容易いことだったが、いくら会話が通じていても人工知性体であるバーバチカが人間の琴葉の髪を結うことは不可能なのだ。
≪琴葉、まず落ち着いてください≫
≪……どうしたらいい?≫
≪お母様に頼んではいかかでしょう。私には助けることができませんので≫
≪そうする≫
いつもの琴葉発バーバチカ経由の伝言ゲームで琴葉の母に髪結いが依頼され、琴葉の母は軽々とみつあみを作り、それをくるくるとコンパクトにまとめ上げた。琴葉から見たら瞬間芸だった。
すちゃっ、とヘッドフォンを装着して鞄を持てば完璧な武装完了、六年ぶりに外へと出た。バーバチカ・モバイル版と一緒に。